耳がかゆい

姉の誕生日で、実家に帰っていた。姉の誕生日は先代の猫の命日でもある。7年前、硬くなってしまった猫の遺体のとなりで、泣きながらケーキを食べた覚えがある。姉には少し気の毒な話だった。
 前の猫は3年くらい家にいた。とても警戒心の強い子で、私以外の家族にはちっともなつかなかった。私が世話焼きだったのと、そもそも気が合うところがあったのとで、私たちはいつも一緒にいて、寒くなると毎晩同じ布団で眠った。私が修学旅行でしばらく留守にしたあとに戻ると、毛が急にたくさん抜けたそうで、背中の一部がはげていた。ごはんもあまり食べなかったという。怖い顔で睨みつけられて、私はたくさん謝った。
 彼女は猫エイズ白血病を患っていた。推定で4歳になったばかりだったと思う。亡くなった日の夜、いつものようにおなじ布団で眠り、硬くて冷たい肉球を撫でながら、剥製を作るための費用のことを考えた。結局、翌々日に荼毘に付して、2年くらいしてから、骨を庭に埋めた。
 なさけないことに、自分のことで悩むのに忙しくて、7年前のできごとを当日のうちには思い出さなかった。日付が変わってから寝床に入り、あっと思った。思い出さなかったことが面目なくて、涙が出た。
 今の猫がうちに来てからは6年と少しが経つ。無邪気な猫で、保護したその日の夜から廊下の真ん中で寝ていた。その時にはもう高校をやめていたけれど、次の仕事も決まっていなくて暇だったから、私はまた色々と世話を焼いた。前の子と比べるとかなり精神的に健康で、特定の家族に依存することもない猫だったから、世話の手間はかなり分担されるようになった。私には心を開いてくれた安心感に優越感が混ざっていなかったといえば嘘になるから、少し寂しくもあったけれど、日向でふわふわの毛を干しながら鼻をぴすぴすいわせているのを見ると、何が何でも幸せでいてもらわないと、みたいな責任を感じたりもした。この時点でなにかがものすごく間違っている。動物には相対的な幸せも不幸せもないし、あったとしてそれが他人にわかろうはずもないのだ。それを手前勝手な目標や義務に設定するのは、どちらかというと愚かだと思う。
 実家に帰った話に戻る。母と今後のことについて少し話して、私の体質とか発達の特性なんかを考えるとまああんまり良い見通しはつかないよね、みたいな結論になった。私がどうしようもない鬱で不注意で世の中のどこにも居場所がなくなっても(それほどに自分の娘の社会性を信頼しない能力というのもすごいなと思うが)最悪うちに帰ってくれば扶養には入れておいてやるから、心配しなくて良い、という。まあ親にしてはありがたい部類と思うべきなのだろう。私の能力を過小評価する代わりに、私の無能さには確固とした信頼を置いている人だ。それで悲しい思いもしてきたものだが、こういうときにはありがたい。しかし私の社会性は信頼していなくても家事能力と人格はそれなりに信頼してくれていそうだから、ひとたび帰ったが最後三十過ぎまで主婦もどきのニートをすることになりそうだ。おそらくそれを彼女も望んでいるんだろう。何のために家を出たんだかわからない。と書いてみて、一体何のためだったのか、実際よくわからないことに気づいた。
 家を出る少し前、私の個人史に残る大不調がやってきて、どのくらい大きいかというとおそらく牛久大仏くらい大きかった。布団に挟まれたサンドイッチの具の仮装を、たぶん2ヶ月くらいしていたんじゃないかと思う。それまでの私は「私が働かないと家が回らないから」と思って率先して家事の役回りを引き受ける傾向にあった。けれど発狂してサンドイッチになってしまった人にそれはなかなか難しいものだ。その頃の母の気持ちを思うと涙が出てくる。残業続きでへとへとに疲れて帰宅してみると、洗い物も食事の用意もできていない。数週間前までは全部できていて、ご飯を食べてお風呂に入って寝ればよかったのに。母親の大きなため息とイライラした声と、たまに嗚咽が自室の扉の隙間から聞こえてくるのに、私は身を固くして耐えることしかできなかった。そのうちに母親が、不満と困惑の隠しきれない声で「今日はどうしてたの?大丈夫?」と尋ねてくる。きっとこの人は私を責めたいんだろう。なんでご飯できてないの、お風呂溜まってないの、と、可能なら怒鳴り散らしたいんだろう。でも母もそれまで私の自主的な自己犠牲に甘えていたことを自覚していて、大声で責め立てるのは親として良くないと考えるくらいの冷静さは持っているんだろう。母はわがままなようでいてあんまり本音を言わない人だし、いまや夫も両親も頼れない境遇にあるから、子供である我々が支えてやらないといけないのだと、頭ではわかっているのだけど。
 まあとりあえずそんな感じの時期があって、家庭内の諸々がある程度私抜きで回りだしたので、「この家、私がいなくても大丈夫なのではないか」と思ったのが家を出ようと思ったことの始まりだったと思い出した。私がいなくても機能するように再設計され始めた家に居場所がないのは当たり前だ。ちょうどその時は奨学金やらで経済的にも余裕があったし、まあ、色々なことを言われたので、ここにはちょっといられないな、と思ったのも大きい。ここで唯一心配なのは猫のことだった。人間がいくらか不衛生な環境で生活していようがある程度自己責任の言葉に帰してしまえる(それもどうかと思うが)が、猫はそうはいかない。自分名義で家を契約できる年齢になってからそれまで、一人で暮らしたいと思うことは幾度もあったけれど、行動に移さなかったのは猫の存在があったからだといってよい。けれど先述のように猫の面倒を見ていたのは私だけではなかったし、私が動かなくなってからの猫の生活も、そんなにひどいものではないというか、大して変わらなかったので、まあ大丈夫だろう、と思い、えいやっと引越してしまった。要するに、私は自分の満足を、猫の生活の向上に優先させた。
 その猫が病気になった。ここで今日昨日何かを発症したかのような言い方をするのは厳密には正しくない。片目の茶色い斑(虹彩メラノーシスという)が数年かけて少しずつ広がってきていて、症状のいくつかが悪性を示している、というのがそのときまでの状況だった。悪性かどうかを判断するには、また悪性であった場合の転移を防ぐには眼球を摘出してしまうしか方法はなくて、目視などそれ以外の方法で判別できる段階になるとほぼ確実に他の部位に癌が転移した後になってしまう。そうなると、たくさん苦しんで死ぬ道しか残されない。全ては偶然に起こったことで、誰の責任でもない。理屈の上ではそうなのだろう。
 費用のことはどうとでもなりそうだが、家族間で手術に対する重大な意見の相違がありながら、今の今まで、突発的に発生する怒鳴り合い以上の話し合いを持たずにここまできていそうなのがかなりまずい。猫がこれからどこに行くのかを問うことは私たち家族がこれからどう(さらに)ばらばらになっていくかを問うことでもあるから、特に母にとっては触れたくない話なのだろうけど。母はとにかく手術に強硬に反対しているので、私がうっかり手術の日程を口走ると、手術の前日に猫を連れてどこかへ逃げるという。姉も自分が先にそうするつもりだったと怒鳴り返す。私はまた泣く。
 この数ヶ月のことは全て夢で、今ではやっぱり自分の人生を自分のものとして楽しむ資格も器も、私にはなかったのだと思う。帰り際、その家にいるのがあまりにつらかったので、「私昨日どうして帰ってきたんだっけ」とつぶやいたら、姉に「私の誕生日だからだ」と怒られた。当たり前だと思った。
 この文章は三回くらいに分けて書いたのだと記憶しているけれど、あまりに消耗する内容だったのでその一回ごとに十回くらい休憩を挟み、二回くらい声をあげて泣き、何を書きたかったのかももう思い出せない。少なくとも最初の予定よりやや塩辛くて金臭い文章になってしまった感じはする。
 いまは奨学金の申請や、アルバイト、就活、研究にかかわる諸手続きのことなどを考えて、疲れている。結局のところ、何もしたいことはない。したくないことはたくさんあるから、したくないことをしないための選択をしていくしかないのだろうけど、体が動かない。息がしづらい。来年の今頃はもう少し楽しくやっているといい。それまで元気でいられればだけれど。猫の遺影がこちらを見ている。読んでくれてありがとう。